2009年12月31日木曜日

ギブアップ+ハプニング発生!

ルワンダの首都キガリの
前回よりいっそう煌びやかになったキガリの夜景

いよいよ今日で2009年も最後ですね。

もうお気づきの方も多いかと思いますが、今回の取材で私が一喜一憂していた「某A国大統領へのインタビュー」というのは、今滞在中のルワンダ・カガメ大統領のことでした。

駐ウガンダ・ルワンダ大使が紹介してくれた担当者に、ウガンダを出発する前に「到着後、連絡するのでよろしくおねがいします」という旨のメールを送 り、一昨日にルワンダ到着してからも電話をかけていたのですが、なかなか連絡が取れず、先ほどやっと話すことができました。(ルワンダの省庁は、31日も 仕事らしいです)

が、結果は「ごめんなさいね~。年末なんで、さすがに色々と忙しくて、電話にでられませんでしたわ~。ん~、今日来てもらっても今日中に日程を決めることは出来ないんで、年明けの月曜日、4日に来てもらっていいですか。それから調整しましょう」、とのこと。

――、まあ、当たり前ですよね…。
7日にはウガンダ発・日本への帰国便に乗らなければならず、そのためには6日にルワンダからウガンダに移動する必要があります。

つまり、私に残されたのは、1月5日のみ。
「4日に伺ったとして、最短で可能そうな日はいつ頃でしょう?」
「さあ~、それは確認してみないと分からないけど、どんなに早くても来週でしょうね~」

「あっ、でも、でも、ひっょとして翌日の5日とかって可能性も、あったりしますか?」
「hahaha!! ゴリラでも見に行く予定でも? それは常識的に考えて100%あり得ませんのでご心配なく。ところで、いつまでルワンダにはいられるんですか?」

「―― 5日まで…、です」

「えっ!? ――――。え~と、あなたは、どうしたいですか?」

というわけで、結局どうやっても間に合いそうにないので、インタビューは次回もう一度トライすることにし、今回はあきらめて2日ウガンダに戻り、カラモジョの取材に行くことにします。

と、ここまで書いていて、ふと気付くと、コンセントにつないでいるのにパソコンが充電されていない!!!!
コードを換えたりして原因を確認したのですが、どうやらパソコンに直接繋がる変圧器付きの部分が壊れているっぽい…。

充電は残り半分以下。
ウガンダにおいてきた荷物の中に、ひょっとすると何とかなるかもしれない機材があるので、それに希望をたくします。

なんとも締まらない2009年最後の更新になりましたが、それではみなさま、良いお年を!

2009年12月29日火曜日

ルワンダへ



雨のカンパラ市街
雨のカンパラ市街

滞在中のカンパラでは、ここ一週間ほど、天気の良くない日が続いています。
結局昨日も大きな進展はなく、いつまでも待っているわけにはいかないので、本日夜、ルワンダへ移動することにしました。

残された日数は10日を切りましたが、未だこの先どう展開するかわかりませんが、とりあえず正月はルワンダで迎えることになりそうです。

半年ぶりにコロンベと会えるのが、楽しみです!

2009年12月27日日曜日

取らぬ狸の皮算用 in Uganda

カンパラのショッピングモール
カンパラのショッピングモール「ガーデンシティー」の入り口で踊っていたサンタの人形。

買い物している人は、みんな楽しそうでした。なんてったって、4連休ですもんね。

久しぶりの年末年始にかけての取材。
すっかり忘れていたのですが、一つとても重要なことを思い出しました。

「この時期、人と会う事は、ほぼ出来ない」
今日は日曜日。
昨日は土曜日。
金曜日はクリスマス。
木曜日はクリスマスイブ。
こちらは、都合4連休です。

そして今週は年末。
しかし日本とは違い、こちらの休みは大晦日と元日だけ。


でも今年は――
大晦日は木曜日。
元日は金曜日。

そして、二日・三日は週末。

つまり、また4連休だったりします。
というわけで、大統領インタビューもソマリアも中央アフリカも、何もかもまったく進んでいない状況で、2009年最終週を迎えることになりました。

出発前にまったく気付いていなかったわけではないんです。
一応頭の片隅にありながらも、「それまでには調整が終わっているはずだから、たぶんクリスマスと正月は、ソマリアか中央アフリカかな?」と高を括っていただけです…。

「取らぬ狸の皮算用」

またしても、ことわざ通りでした…。
(今後、座右の書は「ことわざ辞典」にしようかと)

今日を除いてこの4連休は天気が悪く、日中ずっと雨が降り続いていたこともあり、キーパーソンに招かれたクリスマスパーティーに参加した以外は、ひたすらホテルで引きこもっています。

明日こそ、何か進展があることを祈りつつ、気分転換に今から町中を散歩してきます。

2009年12月24日木曜日

状況は、さらに微妙な方向に

ウガンダ北部の雑貨屋
グルの雑貨屋

昨日の決戦を終え、状況はさらに微妙になってきました…。

結局、某A国大使とは無事に会えましたが、「なぜに同時に…」と余計な心配をする必要もなく、ジェネラルからの電話はありませんでした。(むしろなくて良かった)

A国大使との面会は、A国で手続き上必要となる正式な形での書類提出を行った後、実際に大統領にインタビューしたい内容を具体的に聞かれました。

一通り私の説明が終わると、
「なるほど、君が聞きたいことはよく分かった。インタビュー自体は可能なんだけど、問題は君が帰国するまでに間に合うかどうかなんだ。ご存じの通り、今は クリスマスやニューイヤーシーズンだから大統領も色々と忙しいからね。もし大臣クラスでよければ、君の質問にもある程度答えられるし、スケジュールも調整 できるんだけどどうかな?」

と代替案を提案してくれました。

なんとも有り難い話ですが、私としてはどうしても大統領が直接語る言葉が欲しいので、あらためてその旨を伝えたところ、「分かった。何とかならないか、大統領秘書に日程調整を頼んでみるよ」とのこと。

つまり、依然として「大統領のスケジュール調整は可能か否か」が不明なまま、「スケジュールさえクリアすれば、インタビュー出来る可能性」だけが高くなってしまいました。
というわけで、ジェネラルから連絡がきて、もし会えたとしても、どうしようもない状態だったので、電話がなくてかえって良かったです。

それにしても、判断が難しい状況になってきました。
前回は「現場に行けるかどうか」で苦しみましたが、今回は手を広げすぎた結果、「何を選び、何をあきらめるか」という壁が立ちはだかっているようです。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」。

イヤなことわざが頭に浮かんで離れない、クリスマスイブです……。

2009年12月23日水曜日

いよいよ決戦!でも、なぜに同時に…

ナイル川のカバ
ナイルでくつろぐカバの群れ。カバは糞をするとき、尻尾で自分の糞をまき散らします。今回は距離があったので大丈夫だったのですが、遠い昔、幼稚園の遠足で行った地元の動物園。間近から散弾銃のように襲ってくる糞から逃げまどう友人たちの姿。現場は阿鼻叫喚の地獄でした。
先の記事でキーパーソンから電話がかかってきたと喜び、慌てふためいてホテルを出て行こうとしたのですが、彼から教えてもらったら某A国側関係者の電話が繋がらない…。

「またか…」と気落ちしつつも根気よく30分毎にかけ続けたら、3時間後にやっと繋がったので、それはもう一生懸命に事情説明しました。

「○○さんの紹介で電話した■■という者で、△△という話などを貴国大統領に伺いたいので、是非ともその機会を与えてもらえないでしょうか?」と、拙い英語でまくし立てるように話し終わった直後、少しの間があり、

「すいません、何をおっしゃってるのかわからないんですけど…。あなた、どちらにおかけですか??」。

――教えてもらった番号、違ってました……。
慌ててキーパーソンに電話をかけ、その旨を伝えたところ、先ほど改めて電話がきて「ごめんごめん、間違ってた。明日の10時にA国大使館に行って大使と話を詰めてきて。先方にはあなたが行くと伝えてあるから」とのこと。

というわけで、明日(23日)、A国大使と話すことになりました。
(なんか帰国までに間に合わないイヤな予感が…。)
と、それだけなら良いのですが、根気よく電話を掛け続けていた3時間の間に、つい出来心で前回お世話になったジェネラルに電話してしまったのです。

ウガンダ到着後すでに何度も電話していたのですが、呼び出し音は鳴るものの出てくれず、「やっぱりジェネラルにもなると、電話で話すことも難しいなぁ」と半ばあきらめていました。

が、今日はジェネラルの秘書が出てくれたのです。
ところが、私の電話番号と素性を確認すると、「はいはい分かりました。んじゃ、ジェネラルに伝えとくからさ。(面倒な雰囲気を全面に出していたので、私のイメージではこんな感じ)」と、非常にぞんざいな対応。

「はぁ、八方塞がりか…」と落ち込みました。

しかし、なんと間違い電話発覚直前にジェネラルから電話がかかってきたのです。
しかも、「おお君か~。誰かと思ったよ。(ウガンダに)帰ってきたのかい?」と、私を覚えていてくれ、前回のお礼にお土産を持ってきたことを伝える と、「hahaha、そんな気を遣わなくてもよいのに。今日は厳しいから明日でどうだい?朝10時に都合良い時間を連絡するよ」と、相変わらずジェントル マンな口調で明日会ってくれることになりました。

よりによって二件とも10時です…。

まずA国大統領のインタビュー日程が決まり、その上でジェネラルのアレンジでソマリアと中央アフリカに行けるというのが、贅沢過ぎる私の理想です。

ここはアフリカなので、A国大使と話している最中、ジェネラルから電話がかかってくるという恐ろしい事態になることはないと思うのですが、明日(23日)が今回の取材を左右する決戦であることは間違いなさそうです。

(追記)
今日(22日)の午前中、前回ガランバフォレストに行った際お世話になった准将(じゅんしょう/大まかにいうとジェネラルの次に高い階級)と会い、現在彼 が指揮しているウガンダ北東部(カラモジャ地方)への同行許可を得ました。最悪、全ての取材が駄目になったら、来年1月3日から同地域に行ってきます。

2009年12月22日火曜日

待ってます…

ウガンダを流れるナイル川
悠久の時を感じさせるナイル川の流れ

キーパーソンとその家族を20日の夕食に招待していたため、同日、グルからカンパラに戻りました。
前回のブログ更新時までは順調に進んでいた取材ですが、ここはアフリカ、やはりそんなに甘くはありません。

結局グルでの取材も、諸々の調整がうまくいかず、予定の半分くらいしか消化出来ませんでした。
そして、カンパラに戻ってきてからは、例の大統領へのインタビューの可否が確定するのを、いつものごとくホテルで待つ昨日今日です。
(可能でも不可能でも、とにかくこれが決まらないと、全く他のスケジュールを組めないんです……)


と、泣き言とグルの話をアップしようとしていた今、電話が!
すこし進展がありそうな気配なので、ちょっと出かけてきます。

2009年12月18日金曜日

グルには無事に到着したものの――

グルの町中
グルの復興は順調に進んでいる。

前回はデコボコの土の道路だった通りも、きれいに整備されていた。
グルには予定通り、(今回は車の故障もなく)一昨日の午後、無事に到着しました。
そして現在予定通り取材を進めています。

しかし、ネットへの接続にUSB型の機器を通して携帯電話会社が提供しているモバイルデータ通信サービスを利用しているのですが、利用者が増加したせいか、サーバーや回線自体の問題なのか、とにかく遅い…。

平均1KB/sにも満たない、気が遠くなるようなスピードです……。

しかもたびたびデータの送受信量が「0」になってしまうので、認証が必要なページにはほとんど接続できない状況で、ブログのアップはおろかメールの送受信もままなりません。
そのため今はサイバーカフェ(日本でいうところのインターネットカフェ)に来て、これを書いています。

ニコラスの部屋にて
サッカーが大好きなニコラスらしい部屋。

さてさて愚痴はこれくらいにして、本題に入ります。
数年前から追跡取材をさせてもらっているニコラスに昨日会いに行ってきました。
ちょうど今は冬休みということで、前回とは違い自宅を訪問したのですが、いつもどおり笑顔で出迎えてくれました。

初めて彼の部屋に入ったのですが、壁一杯に貼られた大好きなサッカー選手のポスターと、その隙間に隠すようにアメリカの人気女優のポスターが貼られていて、いかにも年頃の男の子の部屋という雰囲気でした。

子ども達
ニコラスと一緒に暮らしている子どもたち。

しかし前回私が訪問した数週間後、私も何度も会ったことがあった彼の祖母が病でなくなってしまったらしく、お墓の前で祖母が亡くなった状況を説明す る彼の表情はやはり寂しそうでしたが、一緒に暮らしている遠い親戚の子ども達の面倒を見ることで気が紛れるらしく、「とても悲しかったけど、今はもう元気 になったよ」と前にも増して大人になった笑顔を見せてくれました。

インタビュー中の私
ニコラス撮影。ニコラスの祖母の姉妹と世間話中の私。

また、幸いなことに祖母の姉妹がその後学費を出してくれているらしく、学校へは無事に通えており、前回一緒に写真に写ってくれた友人たちとも仲良くやっているとのことでした。
今回は他の予定がキャンセルになたため、突然訪問したため渡せなかったのですが、明日、前回撮影した写真とクリスマスプレゼントとしてサッカーボールを持って、もう一度訪問してきます

フロントガラスに落ちてきた鳥の糞
いつもなら少なくとも手、神懸っているときには頭に直撃、のはずが、なぜか間一髪フロントガラスに落ちてしまった鳥の糞(赤い丸印)

その他の取材に関しては、私にしてはおかしいほど、順調に情報収集が進んでいます。
もし全てがうまくいけば、ソマリア・中央アフリカ、両国への従軍取材も可能になってきました。

前回はあまりにも幸不幸の波が激しすぎましたが、過去の経験上、このまま何事もなく順調に取材が終わることはあり得ません。ので、いっそう気を引き締めて取材を続けたいと思います。

(首都に戻ってからの調整がうまくいかなければ、現在期待している全ての取材が水泡に帰すので、ひょっとしたらその辺りがオチなのかとビクつきつつ…)                                     

2009年12月16日水曜日

ウガンダ北部へ

94歳の老人
カンパラ市内で出会った、グル出身の老人。彼曰く、1915年生まれの94歳とのこと。

某A国大統領インタビューに必要な書類は、なんとか月曜日の午前中に完成しました。
後はキーパーソンと大統領のスケジュールが空いているがどうかの運に任せつつ、本日(16日)から20日まで、ウガンダ北部・グルに行くことにします。

初訪問の2000年から今回で都合9回目の訪問になるのですが、本当に凄い勢いで復興と開発が進んでいて、相変わらずそれに伴った物価の上昇もすさまじいようです。
誰に聞いても「グル!? ホテルも食事も何もかもが狂ったように高いよ」と、その異常な状態はウガンダのみんなが知っているようです。

今回の目的は、数年前から追跡取材させてもらっている元子ども兵士のニコラスに会うことと、書籍用の追加取材としてLRA(神の抵抗軍)の母体に なったといわれてるHSM(聖なる魂の運動)の創始者、アリス・ラクウェナの足跡をたどることです。
(多くの方からお叱りを受けていますが、今回の取材を 最後に、本当に今度こそ本格的に執筆します…)

メイン取材の調整は、あいにく鍵となる将軍二人と連絡がまだとれず、将軍たちの次に頼りになる准将は来週月曜日まで地方にいるとのことで、まだ棚上げ状態です。

前回は車が故障し、通常4~5時間ほどのグルまで12時間かかりました。(思い返しても大変だった)
明日は道中無事に何事もなく、着けることを心から祈っています…。

【付記】
今回はスティーブンが、「グルにも暫くいってないし、久しぶりに一緒にいこうよ」と言い出し、今のところは5年ぶりに一緒に行く予定です。

(一応スティーブンは旅行会社の社長だったりします。なのに会社を5日間も空けていいのか?本人は「ノー・プロブレム!」と言ってましたが…)         

2009年12月14日月曜日

予定外の展開

ホテルの部屋から見た雨模様
今日のスコールは結構長時間続きました。

昨日の結婚式の後、前回ガランバフォレストでの取材でもお世話になったウガンダにおける私のキーパーソンに会いに行きました。

目的はお土産を渡すことと、今回のメイン取材の可否についての感触を確かめるため
のはずが、思わぬ展開になりました。

メイン取材に関しては「いや~、あそこは本当に今は危ないからね~」と、あまり良い感触ではなく「やっぱり、場所が場所だけに、一筋縄ではいかないか…」と今後の手の打ち方について考え始めたところ、「後はどの国に行く予定なんだい?」との質問。

(あっ、話をはぐらかすつもりかな。そんなに厳しいのか…)と若干落胆しつつ、訪問予定の国名を答えました。
するとまったく想定していなかった質問が――

「某A国の大統領にインタビューしたくないか?」

青天の霹靂でした。
某A国大統領へのインタビューは、フリーの私にとってあまりにも壁が高いため、長年にわたり完全にあきらめていたのです。

もちろん私は二つ返事で「Yes!!」と答えましたが、気になるのはなぜ突然そんな話をキーパーソンが持ち出してきたかということ。
(まさか、また?)と思いつつ「ひょっとして、お友達?」と聞いてみたところ、「もちろん。とても親しくしているよ。ちなみに某B国の大統領も友人だから、インタビューしたいなら言っておくれ」との回答。

いやはや、なんと顔が広い…。
というわけで、うまく某A国大統領のスケジュールに空きがあれば、完全にあきらめていたインタビューが出来るかもしれなくなってしまいました。
もっともそのためには、明日中に英語で身上書などを作成して提出しなければならないのですが…。
間に合うかな……。

2009年12月13日日曜日

ウガンダの結婚式と披露宴

結婚式中の新郎新婦
結婚式中の新郎新婦。一番右側にいるのが、スティーブン。

今までアフリカの結婚式は、モロッコとルワンダで参列させてもらったことがありました。
しかし残念ながら両方とも新郎新婦と直接の知り合いというわけではなく、その友人に招待されての参加でした。

残念ながら今回も新郎新婦とは会ったことがありませんでしたが、2000年にエボラ出血熱の取材に同行して以来の友人であるスティーブンが、花婿の 介添え役である「Best Man(新郎にとって最も重要な人がお願いされる、とても名誉な役割)」として式に出るため、良い機会だから私にウガンダの結婚式を見てもらいたいと考え 招待してくれたようです。
(*先日の記事で「媒酌人」と書きましたが、微妙に違いました)

飾りをつけた車
移動中に新郎新婦が乗る車は、リボンで飾りつけられています。昨日は日取りが良かったのか、式場に向かう間に20台以上、同様に飾り付けられた車を見ました。

式が行われている場所に私が到着した時、すでに式は終盤に差し掛かっていたのですが、幸せそうな新郎新婦の横で、新郎とまったく同じ衣装(そういう決まりらしい)を纏ったスティーブンが、予想通り、緊張してぎこちない笑みを浮かべている姿を見ることが出来ました。
(彼とは長いつきあいなので、双方の失敗や笑い話を知り尽くしています。たまにその出来事をネタに話をするので、今回の緊張した顔も良いネタになりそうです)

移動中の景色
移動中、アフリカ特有の抜けるような青空が広がっていた

式が終わると披露宴会場に参列者全員で移動するのですが、新郎新婦と一部の人たちは、ウガンダで今一番人気のスポットで写真撮影をしてから向かうとのこと

せっかくなので私も同行させてもらったのですが、驚きました。
とにかく豪華!!

広大な敷地の真ん中には滝が流れ、その周囲は見事に整備された芝生と青々とした木々が植えられ、その敷地の両側には外から見ても一目瞭然なほど空間を贅沢に使った部屋が並んでいます。

豪華なホテルの中庭
このホテルは、2007年に行われたCHOGM(英連邦首脳会議)のために建てられた。
そして、その全てが世界第三位の淡水湖「ビクトリア」の絶景に面しているのです。
アフリカに通い始めて早18年。
色々なアフリカを見てきたつもりでしたが、まだまだ知らないことも多いと思い知らされた景色でした。
(この世界的な不況下、ウガンダを訪れる観光客が激減している中、これだけ豪華なホテルが順調な経営が出来るはずもなく、色々ときな臭い噂もあるようですが…)
ビクトリア湖を背景に記念写真
ホテルの敷地内にはヨットハーバーもあり、一泊いくらか値段を聞くことも恐れ多いほど豪華な作りだった。

最も景色の良い場所では、多くの新郎新婦が思い思いのポーズで写真を撮っていて、幸せオーラがそこかしこに漂っていました。
昔、私はホテルでアルバイトをしていたのですが、世界中どこでも一緒ですね。

幸せ一杯の二人を取り囲み、手にしたカメラや携帯で写真を撮る人々の表情も、笑顔、笑顔、笑顔。
今後の取材を考えると、新しく買ったカメラとビデオに幸せなシーンを記録させてあげられて、良かったです。

披露宴会場
出席者は100名ほど。これくらいの規模がウガンダの中流階級の平均だとのこと。

一時間ほど撮影会を行った一行は披露宴会場である、教会に移動。
先乗りしていた友人や会社関係者が大歓声で出迎えられ、披露宴の開始です。
こちらも日本と変わらず、会社の上司や学生時代の恩師などがスピーチを行いました。
(日本と違っていたのは、新婦の恩師がスピーチの替わりに歌を披露したことです。またそれがプロ並みにうまい!)

披露宴での食事
見た目は微妙に感じる人もいるかも知れないが、味はまあまあ美味しかった。

その後出席者に食事が振る舞われました。
途中でお皿やフォークが足りなくなるハプニングもありましたが、新郎新婦の友人達による見事なマネージメントで滞りなく、全員に食事が行き渡りました。

新郎新婦によるケーキ入刀
日本と同じように、出席者がカメラを片手に新郎新婦を取り囲んでいた。

食事を終えた後は披露宴のハイライト、こちらもお馴染みケーキ入刀。
たくさんのフラッシュが光る中、少しはにかみながら目を見合わせ、ナイフを握っている二人が印象的でした。

新郎新婦による祝辞
新郎はよほど新婦のことが好きらしく、何度も何度も「絶対に幸せにします!!」と絶叫していた

披露宴の締めは新郎新婦による謝辞。
新郎は新婦の親族に「新婦を妻に迎えられてどれほど幸せか。これから二人で大切な家庭を築き、必ず幸せにします」と、声を枯らして伝えていました。
本当に幸せそうな二人の記念すべき日に立ち会え、うれしかったです。
どうぞ今後も末永くお幸せに~!

2009年12月12日土曜日

カンパラ

#.jpg

カンパラの町並み。ごらんの通り結構な都会です。基本的な日常生活には、まったく困りません。

ウガンダ到着4日目。
昨日は無事にプレスカードも入手し、徐々に取材への準備を整えています。
それにしても相変わらず渋滞が酷い。
左の写真の通り、カンパラは結構な都会です。

そのため多くの車が町中に流入してくるのですが、その台数に道路のキャパが全く追いついていないため、いつも至る所で渋滞が発生し、クラクションが鳴っています。
さてさて、こちらも週末。

窓の外ではパーティーがあるらしく、大音量で音楽が鳴り始めました。
今から私も結婚式に参列してきます。
10年来の友人であるスティーブンが、ウガンダ人カップルの結婚式で媒酌人をつとめるらしく、なぜか私も招待されました(新郎新婦とはまったく面識ありませんが…)

#.jpg
ホテルでの夕食。インド人が経営するホテルなので、ここのところ毎日インド料理料理三昧です…

それにしても、ウガンダの結婚式でも日本と同じように媒酌人というシステムが存在することは知りませんでした。
普段は過ぎるほど冷静沈着なスティーブンですが、特殊な状況下では意外と緊張するところもあるので、無事に媒酌人を努められるのか、見守ってきます

2009年12月10日木曜日

ウガンダ着

ドバイの高級ワインバー
トランジット中のドバイにて。

今回は不時着でどこかの国に寄ることもなく、昨日、無事にウガンダに到着しました。
まあまったく何事もなかったというわけではなく、羽田のカウンターでチェックインしようとすると係員の方が「あれ??」というリアクション。

その後、何度もどこかに電話をかけて何かを確認している様子。
どうやら日程変更が完了していたはずのチケットが、実際は変更されていなかったようです。

結局、関西空港ですでにウガンダの代理店に支払い済みの日程変更代金を再度支払い、座席に空きがあったので何とか無事に乗ることが出来ました。

前回とは違い、比較的に順調にスタートした今回。
良い取材が出来るように、今から各種調整に入ります。

(写真説明)
世界的にそうなんだと思いますが、ドバイ空港における喫煙者の扱いは残酷です。
もし無料でタバコが吸いたいなら、だだっ広い空港のはずれにあるただ一カ所の喫煙所に行かなければなりません。

今回私が搭乗予定のゲートは真反対にあったため、片道15分もかかるというのです。
そんなに時間に余裕がなかったため、旅のはじめから贅沢だと思いつつも、出発ゲートのそばにあったもう一カ所の喫煙できる場所「高級ワインバー」に入ってしまいました…。
そこまでして吸わなくても。という声が聞こえてきそうですが…。

2009年12月8日火曜日

いよいよ出発です。が……

ウガンダに残してきた荷物
これだけ現地に置いてると、スーツケースも軽いです

なんか変です。
思ったよりも準備が早く終わってしまいました。

ん~、でも忘れ物がありそうで怖い…。

前回、ウガンダの友人に重い荷物や日本で使用しない物を預けてきたので、いつもと比べるとパッキングも比較的スムーズに終わりました。
スーツケース内も余裕があるし(入っているのはほとんどお土産関係)、カメラバックもコンパクトな機材を導入した関係で、いつもより軽い。だからこそ、自分の性格を考えると、なにか忘れていそうで怖いです。

もっとも今までの取材も忘れ物しないで行ったことはないので、「何を忘れるか」が問題ですが…。

軽くなったとはいえ結構な重さの荷物なので、いまから自宅までタクシーを呼んで隣駅まで行き、そこからリムジンバスで羽田空港に向かいます。
ではでは、無事に帰国することを第一に、1ヶ月間行ってきます!!

2009年11月29日日曜日

アフリカ取材に行きます

1991年初めてのアフリカ
前回の取材で不時着した飛行機。今回は何事もなく着くことを祈っています

12月8日から2010年1月8日までの予定で、アフリカ取材に行ってきます。

今年春の取材で、日本から買っていった往復のチケットの復路分がダメになり(ガランバ国立公園にいたため、出発に間に合わなかった)、改めてウガン ダで1年オープンの往復チケットを買っていたのですが、日程変更を行えるのは現地代理店だけということで、調整に若干手間取りました。

今回のメイン取材は2001年に一度訪問したソマリアの首都モガディシュか、LRAが現在いるといわれている中央アフリカ共和国。
大まかな日程は下記のとおりの予定です。

(12月9日)ウガンダ着-(12月中旬まで)メイン取材の調整と北部ウガンダの継続取材-(12月下旬)メイン取材もしくはルワンダ取材-(来年1月上旬)メイン取材もしくはルワンダ取材。

日本にいる間はまったく更新していないこのブログですが(前の記事で予想したとおりでした…)、現地取材中は前回と同様の頻度で更新するつもりなので、時間があるときにでも見てやってください。

いつものとおり全く準備が間に合っていないので、取り急ぎご報告まで。

2009年7月13日月曜日

近況報告

1991年初めてのアフリカ
初めてのアフリカ・エチオピアにて。当時21歳の私。改めて見ると年月を感じます

いやはや、ブログを放置して早数ヶ月たってしまいました。(過去最長かも…)
このままだと次回の取材まで更新しない可能性があるので、思いついた時に更新します。
7月に入ってから一本ずつ講義と講演をさせて頂きました。
一つは今年で5年目になる慶應大学の「人間の尊厳」。

もう一つは、三重県川越高校一年生を対象にした「ジャーナリストになるには」
振り返れば過去、結構な数の講演や講義をさせてもらいました。その度に主催者の方からいただける感想文は、私の大切な宝物の一つです。
実は私にとって講演や講義は、写真をとったり記事を書くことよりも、好きな事だったりします。
その理由は「直接、相手の反応が見える」、「話を聞いてくれた人から、その場で直接質問をもらえる」の、二点が主な理由です。


さらに聞いてくれている方々の反応を見ながら話している時や、鋭い質問をもらった時など、突然自分の口から今まで考えたことがない言葉が出てきて驚くことなどもあり、ライブ独特の雰囲気がもたらしてくれる産物は、本当にかけがえのないものです。

今回も大学生と高校生に話しを聞いてもらったわけですが、色々鋭く答えに窮する質問や私には考えつかないような感想がありました。

次の講演は今月30日。もし会場に来てくださる方がいましたら、是非何でも疑問に思ったことは遠慮無く聞いてください。
(もしその場で聞きづらい場合は、メールでも良いので御連絡ください)

2009年4月13日月曜日

記事発表予定

以前ゴリラの写真を掲載してもらった「ソトコト」という雑誌の6月号にて、今回の取材を発表させてもらえることになりました。

すでに原稿は書き終わり、現在レイアウトをしてもらっている段階です。
内容的は、ちょっと暗いものになってしまいましたが、もしよろしければご一読ください。

それにしても、気がつけば帰国してすでに1ヶ月が過ぎてしまいました。
不思議なもので、日本でドタバタしながら生活していると、ガランバフォレストで過ごした数日を始めアフリカでの日々が、現実のことでないような気がしてきます。

2009年3月8日日曜日

無事、帰宅

本日午後22時過ぎ、無事に帰宅しました。
今回の取材行は、本当に色々なことがあり、良い経験ができました。
近いうちに、ガランバフォレストでの番外編を含め、総括編をアップしたいと思います。

2009年3月6日金曜日

ガランバ・フォレストの取材を終えて

ヘリに運び込まれる兵士
前線への食料補給が終わったヘリに運び込まれる、死亡したゲリラ

二泊三日の取材を終えて、本日の午後、無事にカンパラに戻ってきました。

ガランバ・フォレストでの取材は、非常に良い経験になり、且つ、いろいろなことを考えさせられる貴重なものになりました。

諸事情により、現地滞在中の私はジャーナリストではなかったので、メインの一眼デジカメは使用できないなど、いくつか制約はあったのですが、「前線 へ食糧配給を行う部隊への同行」や「救出直後の子ども兵士の撮影・インタビュー」など、現在のLRA(神の抵抗軍)と子ども兵士がおかれている環境を知る ことができる、非常に希有な取材をさせてもらえました。

もちろん全てを見せてくれていないのは重々承知の上で、一歩間違えると国際問題にまで発展しかねないリスクを負いながら、私のわがままを聞いてくれた関係者の方々に本当に感謝します。

今回の貴重な取材は、何らかの形で発表したいと思うので、詳細が決まりましたら改めてHPにて報告したいと思います。(実は発表方法にも、制約があ るんです。なぜならある関係者によると、ウガンダ・DRコンゴ・スーダンの三国合同作戦が開始された昨年12月以降、現地にジャーナリストを入れることは 禁止されているとのこと)

さて、いよいよ一ヶ月にわたる取材を終えて帰国を残すのみとなりました。というより、本来ならすでに今日、件のカタールエアで日本に向かっていなければならないのですが、残念ながら昨日ガランバ・フォレストに迎えの飛行機がこなかったため、まだウガンダにいます。

幸い明日ウガンダから出るエミレーツの席が空いていたため、非常に痛い出費ですが、新たに今日チケットを買いましたので、緊急着陸などしない限り、日曜日には帰国出来る予定です。

LRAのカーネル
関係筋によると、LRAの武器・弾薬は底をつき、戦闘を継続できなくなるのも時間の問題だという。その言葉を裏付けるように、私が現地に到着した日、前日の戦闘で負傷したLRA・第五の地位にあったカーネルが捕虜となり搬送されてきた。

救出された、子ども
私が現地滞在中の間だけで、ウガンダ・スーダン・コンゴ民主共和国・中央アフリカから誘拐された子ども達が4人救出された。その中で銃を手にしていた子どももいたが、その銃はボロボロで弾倉はカラだった。

押収されたLRAが使用していた備品や書類
押収された備品の中には、日本製のPCやプリンター、録音機などもあった。
我々日本人が知らないところで、間接的に日本も多くの紛争に関与している。

蛇の死骸
私が今回の取材で最も悩んだのは、ガランバにはブラックマンバと 呼ばれる非常に危険な蛇がいることだった。(ちなみに幼少時に体験した出来事により、私は蛇がこの世で一番嫌いで怖いんです…)。事実、昨夜一人の兵士が 噛まれ、危うく命を落としかけた。写真の蛇(中央の青い物)はブラックマンバではないが、小さいながらも猛毒を持っているという。誘拐された子ども達が生 きている環境は想像を絶するほど過酷だ。

どこまでも広がる、広大なガランバ・フォレスト
ヘリで上空から見ても、ガランバ・フォレストはどこまでも続いていた。
この鬱蒼たる森の中、誘拐された子ども達は着の身着のままで、延々とLRAに連れ回され、暴力と飢えに今も苦しんでいる。

2009年3月3日火曜日

念願のガランバ・フォレストへ




大きな地図で見る 昨日・一昨日と、ホテルでひたすら電話とにらめっこをして過ごしました。

が、残念ながら一向に連絡がこず、イヤな予感がして本日の朝、ジェネラルに電話をしてみたところ、「あぁ、そういえばそんな話が…」というリアクション。(滅茶苦茶忙しそうなので、私のことなど忘れて当然なのですが) 「今年の流れは止まらないのか…」と、一瞬がっくりと肩を落としたのですが、「ちょっと待ってて。すぐに折り返すから(とても紳士な言葉遣いな方で、私の中で日本語に訳すとこんなイメージ)」と、ちょっと希望を持てる回答が。
そして数分後。着信音がし、液晶にはジェネラルの名前が!

「いまからすぐに私のオフィスにこれるかい?」
「もちろんです!!」
「じゃあ急いできておくれ。軍司令部まで案内する者をつけるから」

押っ取り刀でジェネラルのオフィスに向かうと、「軍司令部には話を通しておいたから、詳細は向こうで詰めてきて」とのありがたい言葉。

感謝の言葉を述べつつ、その足で軍司令部に。
軍司令部で待つこと2時間半。(電話を待ち続けた昨日・一昨日と比べると、あっという間でした)

司令部で一番偉いジェネラルの部屋に案内され、取材の意図や私のいままでのウガンダにおける取材を拙い英語で懸命に伝えたところ、「ジェネラル(私を紹介してくれた人)も、無茶を言うよな~」と言いつつも、同行を許可してくれました。
(本当は軍的に様々な問題があり、それをちょっとした方法でクリアすることになったのですが、若干微妙な話なのでここには書けないんです)

というわけで、何とか今回の目的である、ガランバ・フォレストに現在いるといわれている、LRAの取材に明日の朝から行けることになりました。

今回ウガンダ北部を取材していて感じたのですが、LRA(神の抵抗軍)が過去20年以上にわたりしてきたことは、多くのものを破壊し、今なお人々を苦しめ続けています。

・なぜ、LRAはこのような紛争を続けているのか?
・誘拐された子どもたちが、いま懸命に生きている場所はどのようなところなのか?
・前線で誘拐された子ども達を含めたLRAを相手に戦う政府軍兵士たちは、何を考えているのか?

ウガンダの子ども兵士を取材しはじめて9年目を迎え、より深くこの紛争の原因や現状を知り、そして兵士として戦う(戦わされた)子ども達が見た物や体験したことを、ほんの少しでも感じて来たいと思います。

2009年2月28日土曜日

ジェネラルからの電話と残された時間

ウガンダを横切るナイル川
ナイル川にかかるカルマ橋からの眺め。以前はLRAによる襲撃が予想されるため、18時以降の往来が禁止されていたが、現在は24時間通行可能になった。(本文とは関係ありません)

本日の昼。未登録番号からの電話。
「まさか?!」と思いながら出ると相手は、ジェネラルご本人。

緊張しながら、「ガランバ森林で行われている『ライトトニング・サンダー作戦』にウガンダ軍と同行したい」旨を伝えると「OK。アレンジするよ」とのこと。

これは行ける可能性がグッと高まってきたような気がします。
が、問題は時間…。

果たして、間に合うのか!?
今度は時間との戦いになってきました…。

2009年2月26日木曜日

ジェ、ジェネラル!?

リクルート中のウガンダ軍兵士と志望者
入隊試験に場違いなTシャツの志願者(本文とは関係ありません)

やはり、切り札の力は凄かった。

なんと相当な権力を持つ方の兄弟で、過去大臣も務めたことのあるジェネラル(将軍)を紹介してくれました。

ただ相手はジェネラル。

そう簡単に会えるわけもなく、現在先方からの面会時間指定待ちです。
切り札の方は結構仲が良いらしく、丁度昨夜も一緒に夕食を過ごしたとのこと。わざわざジェネラルに直接電話をかけてくれたので会えることは間違いなさそうなのですが、いつ会えるかにより、残り時間との戦いになりそうです。

とりあえず本日はもう電話がこなさそうなので、明日来ることを待ちつつ、何があっても良いように軍広報責任者に言われたとおり、作戦地域となっているコンゴ民主共和国のビザだけは明日のうちにとっておこうと思います。

起死回生となるのか、やはりこの流れには勝てないのか、こうご期待!

2009年2月25日水曜日

不運な流れの悲しみと、時の流れの喜びと

突然とスコールと雷雨
突然とスコールと雷雨(手持ちで1分のバルブ撮影なので、ブレブレです)

本日首都カンパラに戻ってきました。
それにしても、今年は本当に凄いです。何がって残念ながらタイトル通り「不運」がですが…。

現地で会った日本人の方々には、毎回ネタとして自慢げに語ってしまっているのですが、緊急着陸で始まった今回の流れはグル滞在中も変わることなく続きました。

以下、道中での車両故障で始まったグル編です。

1.みんなでビールを頼んだら私のビンだけ口が割れていた。(一度口に含むも違和感を覚え、吐き出しセーフ)

2.奴隷貿易が行われていた史跡を訪問中、ハエが突然私の鼻の穴に突入。(幸い人生二度目の体験だったので、慎重に排除)

3.車の故障続く(パーツを一つ、バッテリーの交換)
これだけなら、まだ全然問題ないのですが、昨日(24日)は心の方も打撃を受けました。

4.取材の調整をしてくれていた現地新聞記者に6時間待ちぼうけを食わされたあげく、最後は音信不通。一日何も出来ず。(ストーカーのように頻繁に電話したのですが、いかんせん携帯の電源を切られていたためお手上げ)

5.ここまでの流れからイヤな予感がし、先手を打つために軍広報担当責任者に電話をし、北部地域広報担当大尉に口添えをしてもらうも、夢やぶれる。
(責任者曰く、「こちらはOKだけど、作戦遂行地域がDRコンゴ内であるため、同国政府の許可が絶対に必要)

6.失意の中、ウガンダ人の友人に招待された夕食の席で、乾杯をした瞬間、突然の大雨と雷雨に襲われ緊急避難。
(当初は屋外での席だったはずなのに、招待されていた他10名ほどの方々ご迷惑をおかけしました)

「踏んだり蹴ったり」、「泣きっ面に蜂」、「一度あることは二度ある」等々
先人達の言葉が心に染みます。

と、泣き言ばかり言っていても始まらないので、明日、可能性は低いですが最後の切り札に賭けるため首都カンパラに戻ってきました。
そしてその可能性も潰えた場合、今回のグルでの成果は成長したニコラス(下記)に出会えたことだけだったので、再度グルに戻り悪あがきをする予定です。

成長したニコラス
1年数ヶ月ぶりに再会したニコラス。
3年前、LRA(神の抵抗軍)に誘拐された経験を持つ子どもたちへのインタビューで出会って以来、ルワンダの戦災孤児・コロンベ同様、勝手に息子だと思っている。


友人とニコラス
現在13歳になったニコラスは、寄宿舎生活を送りながら友人達とP6(日本では小学6年生)で学んでいる。ルワンダのコロンベ同様、ほぼ私と変わらないくらいまで伸びた彼の成長を見て、改めて時の流れを感じさせられた。

2009年2月23日月曜日

可能性が少し

入隊希望者を前に演説をするグル県長

グルに到着して早三日。グル内部の取材に関しては、軍関係者との交渉はうまく運び、本日はウガンダ国軍入隊試験を取材させてもらいました。

まあ外国人ジャーナリストに取材を許可するだけあって、本日の入隊試験は非常に公正で厳しく、とても常識的なものでした。(これが全てではないと思いますが)

また現在ウガンダ北部地域広報担当大尉は、以前に何度か会ったことがある人だったため、色々と情報をもらい、今回の最大目的地であるLRAが潜伏しているガランバ森林に行ける可能性が出てきました。

後は明後日、首都カンパラに戻ってから軍本部との交渉次第です。

2009年2月21日土曜日

転職しよっかな

ジャーナリストと名乗りながら、何もジャーナリストらしいことを伝えていない今回の取材記。

旅行ライターという職業だったら、結構面白いんではないかと思う今日この頃です。(ただの愚痴のような気もしますが)

まだまだ私の好調は続いていました。
以下、疲れたので簡単に報告。

故障しボンネットを開けて止まった車
午後12時に首都カンパラを出発し、100キロほど走った頃、ボンネットから微かに漏れる煙と、速度計の下でオレンジに光る警告灯が目に入った。イヤな予感がした。

ラジエータから煙が…
ボンネットを開けると、ラジエータからエンジンへと繋がるパイプから煙がモクモクと…。運転手曰く、「5年間ドライバーをしているけど、こんな故障をしたのは初めてだ」
(私も初めてです)

続々と集まってきた通りすがりの人々
運良く小さな村の中だったので、通りすがりの人たちが続々と集まり、ああでもない、こうでもない、と議論を戦わせ修理を手伝ってくれる。

とりあえず無理矢理ビニールテープで修理
電源コードが断線した時のためにダイソーで出発前に買ったビニールテープをぐるぐる巻きにして挑戦。玉砕。

何度も失敗し、気がつけば時刻は夕方に
その後も古いホースや似たような形のパイプで試みるも、エンジンの回転数が上がった瞬間に猛烈な勢いで水が噴き出す。そして気がつけば時間は夕刻に…

さらに時間は経ち、夜に
さらに挑戦と失敗を繰り返し、気がつけば時間は夜に…。

替えの車が到着し、やっと出発
午後9時過ぎ、やっと替えの車が到着。うれしくて写真を撮るのを忘れる。

今度は替えの車のバッテリーが故障
心に余裕が出てきたので、「夜間ドライブで疲れるだろう」とドライバーに休憩してもらおうと考えたのが裏目に。出発使用とするとまたボンネットの隙間から煙が…。トライバー曰く「こんなことは初めてだし、なんでこんなところが故障するのか分からない」
(たぶん、私が悪いんだと思います。ごめんなさい)

幸い、替えの車はイグニッションとバッテリーをつなぐコードが溶けただけだったので、押しがけで無理矢理エンジンをスタートし、カンパラ出発から約12時間を経て深夜0時半頃ホテルに到着しました。
(通常は4時間ほどで着く道のり)
現在こちらは深夜2時。さすがに疲れたので、そろそろ寝ます。

2009年2月20日金曜日

とりあえず一度、ウガンダ北部へ

カンパラにあるゴルフコースホテル
ちょっと高級なホテルのカフェ。

今日は早起きです。
なぜなら本日、北部に移動するからです。

一年半という時間は思ったよりも長く、キーパーソンとなる予定だった人たちが異動していたり、数日前に内閣改造などがあったりして、このまま首都・ カンパラにいても状況に変化かない可能性が高いので、とりあえず一度、当初の予定通りの日程でウガンダ北部に行くことにしました。

到着後は、ウガンダ軍北部地域広報責任者や現地新聞記者などに会い、随時調整を進めていく予定です。

話によると北部のホテルでも無線LANが設置されているところがあるとのこと。
今までは毎回ネットカフェに足を運んでいたのですが、停電などで使用できないことも多々あったため、今回は念のためウガンダで最も新しいデータカードも新たに購入したので、現地から問題なレポートを届けられる予定です。
(ウガンダでも普通に使えるという話で買ったケニアのデータカードが、実際は非常に繋がりづらかったため)

いよいよ今回の取材も終盤に差し掛かりつつあります。このままだと単なるアフリカ旅行になってしまうので、そろそろプロらしい仕事をしっかりしたいと思います。

2009年2月18日水曜日

ウガンダよ、お前もか!?

アフリカの大地
ルワンダからウガンダへ向かう機上より

16日にルワンダを発ち、同日無事にウガンダに着きました。
しかし、まだトラブルは続き、まずは税関で

「なんでお前はこんなに電源コードをたくさん持っているんだ!」
「だって、機材ごとに充電器やアダプターが違うから仕方ないでしょ?」
「そんなことは知らん。怪しいやつめ、いまオフィサーが来るからここにいろ!」と足止めをくらい。
(幸いオフィサーが少し遠いところにいて面倒だったらしく、そのまま解放)

エンテベ国際空港から首都カンパラに向かう道程
エンテベ国際空港から首都カンパラに向かう道程

「はぁ~、またウガンダでも何かありそう…」
とちょっと凹みながら空港から出て適当にタクシーを拾い、値段交渉を終え車に乗り込もうとしたところ、どうやら私を乗せようとした運転手のやり方が気にく わなかったらしく、別のドライバーが「お前のやり方は違法だ!いま空港警察を呼んでくるから待ってろ!!」と凄い剣幕で怒り出し、警察沙汰に。
(15分ほど揉めたものの、とりあえず今回は痛み分けとなり、最初に交渉したタクシーでホテルへ)

宿泊中のホテルの部屋
カンパラ中心部にある「ホテル RUCH」。若干値切って朝食付きで一泊60ドル。

ここまで色々な出来事が続くいているにもかかわらず、今のところ致命傷がないのは、ひょっとすると逆に無茶苦茶ツイてるのではないかという気がしてきました。

20日にウガンダ北部への移動を予定しており、現在は首都カンパラで取材のための許可取得や根回しに励んでいます。